テレビが沖縄に普及するまではどうだったのだろう?戦前は日本だったので、内地も沖縄もそう変わらなかったかもしれないが、戦後の米軍統治下からテレビが普及するまではいったいどうだったのだろうか。調べていくと、当時は沖縄芝居と映画館の激しいバトルがあったという事実に出くわした。終戦後、沖縄は捕虜収容所の時代が終わり、住民達は生活を安定させようと躍起になっていたが、その一方で娯楽に飢えてもいた。そこで戦前からあった沖縄芝居興行が各地で行われるようになる。沖縄芝居とは、沖縄の方言で語られる芝居のこと。その頃の米軍は日琉分離のため沖縄独自のアイデンティティ育成を進めていたようで、沖縄芝居に関してはおとがめはなかったようだ。芝居小屋には大勢の人が詰めかけ、劇団は乱立。芝居用に劇場もつくられ、人気のある劇団はそこで興行、小さな劇団は地方巡業という流れができあがっていった。当時のスターは『大伸座』の大宜味小太郎、『ときわ座』の真喜志康忠、『乙姫劇団』の上間郁子など。小さな地方巡業劇団でも、農村へ行けば二枚目役者はモテモテだったらしい。
656Mに大余裕の接続が、車両は例の701系だ。管轄するJR東口本秋田支社だけの意向ではどうにもならないのだろうが、せめて田沢湖線普通列車用の同系5000番台車のようなクロスシート&ロングシートの交互配置に、マイナーチェンジできないものか。秋田からは羽越本線快速「こよし6号」に接続。以前は各駅停車だったが、快速迎転実施により656Mからの接続が可能になった。ただし、帰宅する学生で混雑することが多いので要注意。車両は、毎度おなじみの701系だ。もう東北エリアでは割り切るしかあるまいが、これはJR東日本が展開中の「TRA・ING」キャンペーンの趣旨に反しているのではないか、とさえ思えてくる。このキャンペーンのキャッチフレーズに、「旅らしい旅がしたくなったら、列車の旅を」とあるが、地方での実情がこれでは思いやられる。ホントは「旅らしい旅がしたくなかったら、列車の旅を」の問違いだ、と思われても弁解の余地なし。それとも、「旅らしい旅がしたかったら、速くて高い新幹線&特急列車の旅を」を間違えただろうか…。ラストの834Dは、下りと同じキハ47の4両編成。
夕食と違って、朝食はどこのホテルでも予約をする必要はありません。たとえばパリに5泊したときは毎朝違うホテルで朝食をとりました。プロとしては、ホテルのサービスをチェックするよい方法だから。パリの場合それとあわせて、街角のカフェで朝ごはんを頼む。フランス語しか通じないけど、隣の人のお皿を指差して「シルブプレ」というのと1、2、3くらいの数字を覚えていけばいい。6カ国語会話集なんて買う必要はありません。ガイドブックに必ず拭ってる旅の会話集だけで充分。ひとつの国に1週間もいると、だいたい日常的な会話は、耳に入ってくるようになります。日本人はお店に入っても黙って入ってきて黙って眺めて出て行くから怖い。こんにちはっていいながら(人の店だからね)、入っていきましょう。そしてなにも買わないで出て行くときもありがとうやさよならをいいましょうね。